中之嶽神社(甲子大國神社)に行った(御朱印有)
日本一の大きさの大黒様がある中之嶽神社(甲子大國神社)に行って御朱印を授かってきた
中之嶽神社と甲子大國神社は妙義山の山頂に近い同じ境内にある神社になります。参道自体は妙義山登山道への入口でもあるので行楽日和の日は多くの参拝者や登山客で賑わってて登山の安全や日本一の大黒様像もある事から金運も高まる一大パワースポットとなってます。
土日祝日行楽日和の日はたまに宮司さんと思える方が自らホラ貝を吹きながら参拝客をお出迎えしてくれてる優しい神社でもあります。
日本一の大黒様である中之嶽神社の御神体である轟岩は人と人が重なってる「愛」を感じる有難い大岩でもあります。
大黒様が祀られて、名前から甲子園球児や野球好きには大人気の甲子大國神社は大鳥居をくぐって平坦な参道を100mぐらい行った先にあります。
初めて中之嶽神社を目にする人は社殿への石段の急角度さにビックリするかと。写真左手すぐ奥に甲子大國神社があるから二つの神社の距離は短いけど・・・登山慣れしてる人には問題にならない角度かもですが、一般人の私はしばらく下で驚愕し、気合いを蓄積してから登りました。中之嶽神社への参拝は階段を上がりましたじゃなく、登りましたというべき所でした。
目次
・日本一の大黒様の様子
・甲子大國神社の様子
・中之嶽神社の様子
・御朱印とお守りとご利益
・感想と口コミと所要時間
・パンフレット
・【2023年】年中行事
・アクセス、駐車場
日本一の大黒様の様子
県立妙義公園駐車場に車を停めて中之嶽神社の参拝開始、赤鳥居をくぐり社務所(御朱印授与所)前を通り過ぎてちょっと歩くとすぐに右手金ピカの日本一のだいこく様と轟岩が大きく見えてきます。
高さ20m、ビル7階建てに相当で日本一大きい大黒様なんだそうです。笑顔のお顔も良く身体検査受けたらメタボと言われちゃうけどこの体系が心が和むし、「元気と笑顔なら運気は上々」といようなお姿で頑張ろうって気持ちになりましたね。普通の大黒様は小槌を持ってますが、日本一の大黒様は剣、剣を縦に持ち笑顔って。ちょっと危ない神様にも思えちゃいますが、病や厄、悪霊を剣で祓い福を招くという事なんだそうです。
甲子大國神社の様子
日本一のだいこく様を参拝した次は神橋を渡って奥にある甲子大國神社の社殿へ。
橋を渡ってすぐ右手の手水舎がありました。
甲子大國神社の参拝作法は普通の神社の参拝作法+神拝詞「祓え給い清め給え守り給い幸え給え」を三唱。
大国神社の御祭神は大国主命外十柱
「人皇第五十二代嵯峨天皇弘仁九年(八一九年)大納言藤原冬嗣卿と空海(弘法大師)が登嶽し、大国主命を奉斎せりと伝へられる、世に、妙義の大福神と称されて講中の参拝が三百数十年続き、平成十七年には高さ二十メートル・日本一のだいこく様が奉納される。」819年は平安初期の時代。「当神社で最も歴史と由緒ある御祭が甲子祭で三百数十年に渡り続いています。甲子(きのえね)とは『気が栄える』といい、だいこく様の縁日です。開運・厄除をはじめ様々なご利益があります。」と書かれてました。
社殿の外見は普通な感じでしたが、中が幻想的であり、かつ荘厳な感じもして感動!龍の絵も大きく大迫力でした。
中之嶽神社の様子
日本一の大黒様と甲子大國神社へは駐車場から平坦な参道で楽々参拝可能ですが、中之嶽神社への参拝は私のような一般人には気合いが必要。例えるならその巨木の1本にハシゴがかかってるような急な角度で、中腹にある妙義神社ほどの階段数ではないものの角度は強烈。例えるなら梯子の角度を石段で作ったという感じ。
驚愕キョーレツな石段に入る途中右手に重要文化財「高橋道斎せんへい書による長清道士之碑」がありました。
この時は隣の赤かった毘沙門天像のあった手水舎だけ気にとられましたが、高橋道斎とは江戸時代中期に下仁田町の富豪に生まれ、漢学、書家、俳人、陽明学、儒学などの知識人であったらしい。その説明パネルには『道士は相州の人で後北条に仕えていた。道士の父が賊に殺されたので、道士は上毛金洞山(中之岳)に入り、山中にて剣の道に励み、仇を討つことができた。
しかし道士は剣をすて再び金洞山に隠れ入り仏道を修行し、村人からは神のごとく尊敬されていた。晩年には人間界を離れ、山中において穀食を避けて不老不死の法、いわゆる長生の術を修め、
享年百四十有八歳、延宝元年葵丑(1673)長寿を以って金洞山に没したが、世のいう所の 尸解(仙人のなきがら)というのではなかろうか、高子(高橋道斎)は道士の死して百年後の安永年中(1772)の初め頃、中之岳厳高寺の慈海和尚と親交があったことから、このことを世に伝えるよう依頼され、この墓の側石碑を建てた。』
何と!こと時代まで148歳まで生きたなんて・・・・
『この碑は「安永戊戌夏、上毛高克明せんへい書」とある。安永7年(1778)に建てられたもので、町内における高橋道斎の建立した唯一の石碑である。』
てっきり、この石碑は毘沙門天の隣にあった石碑の事かと思ったら、説明パネルの最後に「石段を登り、中之嶽神社本殿左側にあります。」と・・・・・・・
さてメインイベントのキョーレツな急角度の石段上がりを始めますかね。
私にとってはキョーレツ!
めちゃくちゃ急でキツイ・・・ちょい休憩。
はぁはぁ・・・キョーレツな勾配で・・・疲れ果てて・・・途中で立ったまま休憩・・・急だけど手すりがあったから何とか足+手の力で途中まで来れた~。
上から登山で下ってきた元気そうなおじいちゃんに「情けない、頑張れ~あともう少しだぞ。」と励まされ、さらに残りもうちょっと気合いを入れて上りました。
中之嶽神社への石段の階段数は多分144段だったと思いますが、急だったから伊香保温泉石段街375段上るより疲れたかも。
中之嶽神社の社殿に到着しました。すっげ~高い大岩の前にありました。この大岩が轟岩で中之嶽神社のご神体。
中之嶽神社の御祭神は倭建尊「日本武尊」外十六柱「本社は、その昔『波胡曽神』を山の主と祀られて居たが、倭健尊『日本武尊』勅命に依り関東御巡行の際に妙義山に登嶽せりと伝えられる。人皇第二九代欽明天皇の御代に妙形氏が社殿を建立したという人皇第八十二代後鳥羽天皇の寿永二年(一一八四年)三月藤原祐胤卿の名工を得て神剣を奉斉せり。」
ここから昔は波胡曽神だったが、今は日本武尊を祀ってる。第二九代欽明天皇の御代とは540年頃から570年頃までの古墳時代、538年か552年に仏教が伝来したばかりだから、まだ仏様がいない神の国日本っていう感じの時代に社殿ができたみたい。創建537年で最初は元は波己曽の大神、今は「波己曽社」と「日本武尊」の神社。もしかしたら大昔は関係があったのかな?神剣を奉納した年である1183年~1185年に鎌倉幕府ができたと云われる、1184年は一の谷戦いなど源氏と平氏の大合戦中。平和を願っての事なのかなぁ?歴史ロマンを感じちゃいましたね~。
「人皇第百八代後水尾天皇元和二年(一六一六年)丁巳月、加藤長清(道士)登嶽し中興の開山主として神器を守り奉斎す。」1616年は、徳川2代将軍徳川秀忠の時代で家康公が亡くなった年でもある。
「徳川時代諸大名の崇敬の致す所と成り、領主織田筑前守信久侯、社殿を改築、中之嶽奉行を設け地所を寄進す。『嶽高寺』を建立し別当とした。人皇第十四代中御門天皇の享保五年(一七二一年)五月社僧祐覚吏正・齋藤半左衛門と事実を具進して、嵯峨御所より十六菊御紋付の幕、提灯を下賜せられる。」1721年は徳川8代将軍吉宗お時代。
「旧小幡藩(北甘楽郡)の総鎮守として奉斎される。旧藩主松平家の崇敬も篤く親察されたと伝へられる。明治十一年小坂村数社を合祀して中之嶽神社と称し今日に至る。」
轟岩=御神体に寄りそうように建てられてた社殿(拝殿と幣殿はあるが本殿はない)に感動!大岩に寄りそう大谷寺や榛名神社にも雰囲気的に似てる感じ。でも社殿に来るまでに一番疲れたのはココだから秘境の神社。。まさに神山と社が一帯となってるまさに中之嶽神社パワースポットって感じがしました。
社殿の左側にある重要文化財「高橋道斎せんへい書による長清道士之碑」ってコレかなぁ?
社殿の右側は石門方向への登山道がありました。
中之嶽神社を通る石門めぐりコースは約90分。
お参り後は急階段を下る事に。こうやって見ると下りの方もキョーレツな急こう配を感じました。手すりがあっても上りより下りの方が恐怖を感じた・・・・・
御朱印とお守りとご利益
社殿が二ヶ所、神社の名称も違うと他ではそれぞれご利益が違ったりするものですが、今の中之嶽神社は、甲子大国主命様(だいこくさま)をお祀りする神社だそうです。だから基となるご利益は「運気上昇」「金運上昇」「気力充実」だそうです。その3つから「身体健全」「厄除け」「病気平癒」「開運吉祥」「方災除」「良縁祈願」「社運興隆」「家内安全」「商売繁昌」「家族健康」「交通安全」「心願成就」「合格祈願」など。
社務所は参道の曲がり角の部分にありました。
オリジナルの御朱印帳は3種類ありました。
御朱印の種類は多かったです。書置きですが宮司直筆のアート御朱印600円
書置きですがアート特別御朱印が二社で1000円
期間限定御朱印600円
私は通常の記帳タイプの御朱印二社で600円、幸運を呼ぶミニ大黒様も頂きました。
平成最後の月に参拝に行った時の「金の平成文字入り限定御朱印」も授かりました。
ラメ入りインクで書かれた春爛漫限定御朱印は今まで見た御朱印の中で一番の派手さ。
御朱印の種類も多かったからお守りなどの種類も色々ありました。
何百年も続いてる甲子祭にちなんで、甲子園、そう野球お守りもありました。
水晶パワー開運腕輪お守りと日本一だいこく様と勾玉パワーお守り
社務所と相向かいにあった妙義山中之岳ドライブインにも宝くじが当たる宝お守り、金運を招く金運を上げる黄金塩、足腰を護る、災いをはらう黄金塩などもありました。
そして縁結玉とコワ・・・・縁切玉・・・縁結びはアチコチの神社で見かけますが、中之嶽神社は縁切り神社でもあるんですね~珍しい。
大国神社の脇にある建物の中で縁結びか縁切りかの願い玉を壁にかけます。
また普通の形の絵馬もあるのですが、野球ボールやバットの形をした絵馬もあったり・・・と。
金運上昇や開運のおみくじなど5種類のおみくじがありました。
感想と口コミと所要時間
幼少の頃に親父に連れられてカニの横這いなど行った記憶があるので、もしかしたらその時中之嶽神社にも行ったのかも知れないが、行ってたとしても、ん十年ぶりで全く記憶なく、駐車場から参道歩いてその先にあった社殿を見た時に、ここに来るまでに立ち寄った妙義神社の石段のようなものは見えず平和な神社でよかった~と思ってたら・・・・角度は強烈すぎてホント疲れました。全く関係ない観光地で知り合った人と妙義山の話となり、中之嶽神社の石段は凄かったよね~と話しが合ってしまうほど、私以外にもキョーレツ、驚愕の人もいてよかった。
多分、妙義山に登る人は、こんなの大した事ないよ~と言いそうですが、運動不足の人は覚悟して参拝に向かった方が良い神社かと。
日本一のだいこく様も社殿の龍の絵なども素晴らしかったのですが、石段のキョーレツさが焼き付いてて、中之嶽神社の思い出は?と聞かれたら、めちゃくちゃ疲れた神社と返答しちゃうかも?
ブログを書くにあたり写真を見返してたら、結構隠れミッキーじゃないけど、アチコチにふと大黒様像があったので、子供のいる家族連れやカップルなら大黒様探しで楽しめる神社かも。参拝料無料だし。
足腰が普通の人だったら、2社回って所要時間は30分ぐらいだと思います。
参道を挟んで日本一のだいこく様の前は妙義山中之岳ドライブインというお店があって、食事や休憩も可能でした。
コーヒーやビールなどの飲み物の他にカレーライスや牛丼、もつ煮定食や各種うどん類などのメニューもありました。
実は私が中之嶽神社に行ったこの日、周りは騒然としてたんです。救急車、消防車など県立妙義公園駐車場に集まって空はヘリコプターも飛んでた状態。後で知りましたが、上級者コースで1人滑落重傷、レスキュー隊タンカもって石門への登山道へ向かったのでおそらくそのコース上で1人で滑落・・・・残念ながら死亡だったそうです。群馬県には登山が怖い山は谷川岳一の倉沢だけかと思ってましたが妙義山も毎年のように事故があるようです。妙義山登山しに行く人は慎重に登って無理しないでくださいね。
さて私は妙義神社と中之嶽神社の石段上がっただけで足がプルプルと疲れてしまったので帰りに妙義温泉妙義ふれあいプラザもみじの湯で疲れを癒しました。
パンフレット
【2023年】年中行事と紅葉の見頃
1月1日~7日初詣
0月15日例祭
紅葉は中之嶽神社から見えるよいうより参拝の為に停める県立妙義公園駐車場からの眺めと思ってください。
妙義山の紅葉は例年なら10月下旬から11月下旬、中之嶽神社の駐車場周辺は標高720mだから大体11月上旬から11月中旬。
紅葉の見頃は気候によって変わりますが、 そういう時便利なのがコレ!妙義山の様子がチェックできるライブカメラ→富岡ホームページ
アクセス、駐車場
中之嶽神社:住所:群馬県甘楽郡下仁田町上小坂1248 電話:0274-82-5671
中之嶽神社へのアクセスは上信越自動車道松井田妙義インターが一番近くて高速降りて約9.5キロ、車で約21分。次に下仁田インターが近く高速降りてから約18.3キロ車で約31分、富岡インターから約22キロで車で約40分の道のり。
富岡製糸場から下道で約20.7キロ車で約39分、碓氷峠鉄道文化むらから約13.9キロ車で約27分、一之宮貫前神社から約18.4キロで車で約33分、こんにゃくパークから約31.6キロ車で約41分、磯部温泉から約15.9キロ車で約33分と周辺観光地からも近い。妙義神社からは約7.1キロ車で約18分、妙義温泉妙義ふれあいプラザもみじの湯からは約7キロ車で約17分と近い。
電車の場合、JR信越線磯部駅からタクシーを利用など路線バスは走ってないようです。
私の場合、桐生市街地から高速道路を利用して中之嶽神社まで約83.1キロ、車で約90分でした。
駐車場は中之嶽神社の赤鳥居の前にある県立妙義公園駐車場を利用しました。無料の駐車場で雄大で迫力ある妙義山の岩山も目前で見られました。
駐車場の反対側も山々が連なる絶景でした。
この県立妙義公園駐車場には中之岳みやげ店というお店が一軒ありました。
愛想の良い女将さんと色々なお土産やドリンクが売ってましたよ。
コメント/口コミ