鷲峰山法華禅寺(法華寺)に行った
諏訪市にある鷲峰山法華禅寺(法華寺)に行った。
諏訪大社上社本宮の参拝をしてた時に偶然見かけたのが、法華禅寺(法華寺)です。そこには「吉良義周」の墓のある寺という案内もありました。吉良義周という人物は吉良上野介の養子となり、吉良家の当主でもあった方ですが、赤穂浪士の討ち入りにて傷を負い、お家は断絶、そして信州高島藩に預けられ幽閉され22才の若さで亡くなるという、不運としか言いようがない短い人生を送った人。忠臣蔵のドラマや映画ではチョイと出てくる人物で少し知っていたので、行く事にしましたが、行ってみたらそれだけじゃない、奥まで行けば武田信玄公の墓碑もあったんです。
行った時に法華禅寺(法華寺)のパンフレットを見たら、織田信長の武田勝頼討伐の信州攻めの時はこの法華寺が何と!織田信長の本陣だったそうです!今の建物は再建されたもので当時の建造物はないようですが、この法華寺の地にあの信長さんがいたなんて・・・歴史ロマン感じましたね~長谷川博己さん演じる明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」という大河ドラマに出るかな?
目次
・法華寺(法華禅寺)とは
・境内の様子や感想と口コミ
・パンフレット
・アクセス、駐車場
法華寺(法華禅寺)とは
私が法華寺を知ったのは、諏訪大社上社本宮の観光と参拝に行った時「明治維新前の諏訪大社上社と神宮寺」の絵図パネルを見た時。
その絵図パネルの裏には蠶玉神社が。
そして蠶玉神社の脇には「法華寺」と「信玄公墓碑」の案内が。
そこから少し坂道を上っていくと法華寺の山門があり、中に入るとパンフレットがあったので読んでみました。
そこには『比叡山の開祖伝教大師が、弘仁六年(八一五)東国布教の際この地に巡錫し開山されたと伝えられ、もと天台宗であった』815年は嵯峨天皇の平安時代。
『鎌倉時代は禅宗が流行し、宋僧の蘭渓道隆が帰化、執権北条時頼の厚い帰依を得、建長寺を開山した。この頃、諏方社の大祝を退位し武士として幕府に仕えた諏方蓮仏入道盛重は鎌倉における重要な人物として、吾妻鏡に載った記事も多く、時頼の信任は、「おれが往生したら、直ぐ迎えにくるぞ」と遺言するほどであった。この盛重が道隆を招き法華寺を禅宗に改めて中興した。
天正十年(一五八二)三月、織田信長が武田勝頼征伐のとき、諏訪上社を焼き払い、この寺本陣とし、三月十九日から四月二日まで十四日間滞在して論功行賞を行った。この寺で信長が明智光秀をはずかしめて恨みをかい、二か月後の六月二日の明け方、京都本能寺で命を落とす直接の原因になったと言われている。』
何気なく立ち寄った法華寺が戦国時代の歴史の舞台だったなんて歴史ロマンに浸ってしまいました。
『元禄十五年(一七〇二)赤穂浪士討ち入り後、吉良上野介の嗣子義周は高島城に流された。三年後、義周は二十二歳を一期として客死し、遺骸はこの寺の本堂裏山に葬られた。
法華寺一帯は、かつて他の三寺及び八ツの院坊を始めとして、普賢堂・五重塔・鐘楼・薬師堂・仁王門・釈迦堂など一大伽藍の様相を有していたが、明治維新の神仏分離令により悉く破却された。法華寺も廃寺になったが、明治五年に神宮寺學校の校舎となり、大正五年に統合中洲小学校ができるまで、五十年間にわたって村の初等教育の場となっていた。
この間、千躰仏堂に還った仙厳和尚は明治七年教導職試補に任ぜられ、のち地蔵寺として檀家をとり戻した。さらに明治三十二年九月、寛道和尚代法華寺の名をとり戻し、大正五年には再び旧地にかえった。本堂は明治二年(一七六五)当地方出身で大隅流の名匠伊藤儀左衛門によって再建されたものであったが、平成十一年七月二十七日未明に放火により焼失した。
平成十七年五月、本堂、倉庫裏とともに再建されて復興した。』と法華寺パンフレットに書かれていました。
境内の様子や感想と口コミ
山門をくぐると目の前に本堂がまずはお参り。仏様はよく見えなかったのですが、左に文殊菩薩、真ん中に釈迦座像、右に普賢菩薩の釈迦三尊像らしい。また大覚禅師像もあるみたい。
御朱印を授かろうと本堂横の寺務所と御自宅両方呼び鈴鳴らしたが応答なし、外出中で留守らしい。
大黒天様が祀られた小堂。
吉良義周公の墓50mと書いてあった階段を上へ。
山の小路から本堂裏の庭が見えました。なかなか素敵な庭園でした。
吉良義周公の墓が見えてきました。
説明パネルがあり『吉良義周公に捧ぐ 義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。公は上杉綱憲(吉良上野介長男)の第二子として生をうけ、五歳にして上野介嗣子(あとつぎ)として吉良家の人となった。
名門の血を継ぎ、優れた才能を持ち、将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。元禄事件である。世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。
しかし、ここに幽閉の二年有余、高島藩主忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、また当法華寺十一世春厳和尚の温かいご配慮に、われら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。
公よ、安らかに眠り給え。』と書かれてました。そっと手を合わせてから戻りました。
武田信玄公墓碑を目標に、吉良義周公の墓への路と違う山道を置くへ進みました。
墨縄神社、材木などに直線を引くための大工道具の墨壺からきた大工やとび職人の神様を祀る神社なんだそうです。宮大工や御柱など大工さんはパワーが必要ですからね。
かなり寂しい、鳥の鳴き声ぐらいしか響かない所でしたが、信玄公墓碑の矢印の方向に向かって歩き続けました。
目の前が開けてきてそこは「諏訪市有形文化財 諏訪大社上社五重塔跡」でした。そこの説明パネルには『神社の宮寺として神護寺・神宮寺が各地の神社で創建されるのは、八世紀代といわれる。神宮寺の創建理論は、「救われない神の世界を仏法により救済する」というものであった。延慶元年(一三〇八)、大祝の支族で、下伊那に勢力をもつ知久敦信により五重塔が建立された。五重塔は礎石から高さが十六間一尺四寸五分(二十九・五三m)あったという。知久氏は信仰が厚く、五重塔のほか、普賢堂を建立し、梵鐘を寄進している。
明治初年の廃仏毀釈により五重塔も取り壊されたが、本尊の五智如来像は四賀の万福寺へ移された。そのほかに建立当時の銘板、風鐸 市有形文化財 が現存している』とありました。
多くの土地を所有していた寺社を分けて勢力を小さくし、土地を取得しやすくする為の明治政府の策略的政策なのに、使えてるものをわざわざ破壊までしてしまったんだろう?今まで大事に信仰してたんじゃないの?と思ってしまうんですよね~。今ここに五重塔があったら、素晴らしい景色だったでしょうね。あ~勿体ない。
神力手石は弘法大師様の手をつかれた石だそうで右上に手形があるとのことでしたが・・・これかな?という感じ。
寂しい感じのする所でしたが、展望台からの景色はいいかも!結構高い位置にいるのがわかりました。
神宮寺仁王門跡と鐘楼跡
普賢堂跡
諏訪市天然記念物五本杉『推定樹齢約三七〇年(平成七年現在)大きさ 目通り幹周(東側のものから)3m92cm・4m・4m30cm・5m64cm
スギは日本の特産で、自生もあるがよく植林に用いられる。
ここはかつての神宮寺普賢堂の南側にあたり、弘法大師がこの木の下に宝を埋めて「朝日照り夕日かがやくこの山に漆千林 金千林 朱千林」という言葉を残したという伝説がある。
五本のうち一本は落雷により損傷し、切り株だけを残す。』とありました。
この辺りに来ると信玄公墓碑の案内がなくなり、周りをキョロキョロ。急坂の山の上に墓らしき石が見えました。
陸軍大将伯爵寺内正毅書の忠魂碑でした。
辺りをキョロキョロしながら移動してついに発見!信玄公墓碑!しかし・・・・・何かを書いてあったと思われる金属版は錆びてるし、白い板は字が消えてて読めない・・・また、墓碑とは思えないような石・・・・・・でもその石に向かって→で信玄公墓碑と。
武田信玄公だから、少しは立派だろうと想像してここまで歩いてきましたが・・・・風化しすぎなのか?それとも最初からこういう小さい岩なのか?正直ガッカリ・・・・
法華寺の境内からは大きく外れた場所まで来たと思いますが、跡地はどのような建造物の姿だったのか想像できず、吉良義周公の墓と墨縄神社までで良かったかも。
パンフレット
法華禅寺パンフレット1
法華禅寺パンフレット2
法華禅寺パンフレット3
アクセス、駐車場
法華禅寺(法華寺):住所:長野県諏訪市中洲神宮寺856 電話:0266-52-3361
法華禅寺(法華寺)へのアクセスは中央自動車道諏訪インターから約3.3キロで車で約7分。
諏訪湖間欠泉センターから約8.5キロ車で約17分、諏訪大社下社秋宮から約11.6キロ車で約23分。
私の場合、桐生市街地から高速道路を利用して立石公園まで約179.3キロ、ノンストップなら車で約179分でした。
山門の左側に参拝者の駐車場と思われるのを見かけましたが、諏訪大社上社本宮の隣の敷地にあったため、私は諏訪大社上社本宮の駐車場のまま「本宮」と「法華寺」両方を観光と参拝してきました。
タグ :神社仏閣
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