足尾産業遺産めぐり(銅山遺構や廃墟)
足尾産業遺産めぐり(銅山遺構や廃墟)
足尾銅山で栄えた現日光市足尾町には坑道に入れる「足尾銅山観光」が有名だが、町のアチラコチラに銅山産業の遺産の遺構や廃墟などがある、個人的には100年もこのままならきっと世界遺産になるだろうと先回りして巡ってみた、なお足尾町には銅山に関する多くの遺構や廃墟があるが、ここでは車やバイクで巡れたイチ部分だけ、山深い場所に一人で歩いての散策は熊さんと出会うのも怖いから道路近くから見えた所だけである
足尾産業遺産めぐり(銅山遺構や廃墟)
足尾町観光マップを見ると「通洞抗口」が足尾銅山観光、他に「小滝抗跡」と「本山抗口跡」があった、坑道内を巡れる足尾銅山観光の「通洞抗口」は今もあるが、他の小滝抗と本山抗は「跡」となっているのがわかる、なお地図上ではグルっと足尾町一周できるみたいに見えるが、一部分は「赤銅のみち」と自然歩道となっているので気を付けたい
小滝抗跡周辺
小滝抗跡へは桐生から日光に向かう場合国道122号線を銀山平方面へ右折し山奥へ向かう
所々道幅は狭くなったり広くなったりする、途中山方向に三脚を立てて撮影待機してる人たちがいたので何を撮ろうとしてるのか気になったので聞いてみたら、ある木に、鹿やカモシカ、熊などが現れる時があるのでそれを辛抱強く待ってるとの事、やっぱり熊さんいるんだ、歩いての散策は止めようと思った
小滝抗跡の小滝の里に到着、無料駐車場もあった
駐車場の周りは石垣が多数あった。製錬所、選鉱所跡で遊歩道で中にも入れるようになっていたが、熊出没注意の看板もあったので駐車場から見るだけにした
秋も熊出没注意の看板があったが、ちょっと歩いてみた、落葉してるから山の斜面に多数の石垣が残ってるのがわかった
当時はこんな姿だったらしいが、今は石垣、多分中に進むとレンガ跡もあるらしい
この辺りは今は公園風になっていて東屋もあるが、昔は小滝中心部だったみたい
「小滝抗閉山前の小滝中心部のようす~足尾銅山の三山(抗)のひとつであった小滝の始まりは、明治18年(1885)に旧抗跡の開発に着手したところ、すぐに富鉱を発見したので翌年には選鉱所と製錬所を設け、次いで抗夫飯場も各所に建て、道路を開削し馬車鉄道を通すなど生産機能を拡大してからのことである。更に病院や学校も建て町家が並ぶようになり、大正5年(1916)の最盛期には一万有余人の人口となった。
その時の「商業家便覧」によると数件の料理屋や芸妓屋もあり、抗夫達の格好な揚として振るわったことがうかがえる。しかし徐々に経営の合理化が進められ、遂に小滝抗は昭和29年(1954)に閉抗され銅山施設は一挙に撤収となり、小滝は僅か数戸を残し廃墟同然となった。
今は、昔日の夢の跡として「ここに小滝の里ありき」の大石碑が建てられたが、苔むした石垣の上から山晴れ水澄む我らの小滝・・・・の歌が抗夫の声高らかに聞こえてくるようである。」
小滝の里から上へ行く時今は道路の橋ですが、昔は小滝支局木橋があったみたい
小滝の里から銀山平に向かって走る、今はよくある山道の景色だが昔は1万人もいた街だったから、昔はこの道の両脇にお店などの建物があったのかもしれない
この辺り秋は車やバイクで散策していて楽しい、紅葉の景色が美しい
今は川の両岸自然がいっぱい、山も新緑と紅葉が美しいが昔は写真のように山も川の両岸も切り開かれて街が形成されていたとは信じられない
小滝の里から少し走ると右側に抗夫浴場跡があった、結構湯舟小さい、おそらく昔はこの湯舟を囲んでいた建物があったと推測するが、今は池のように湯舟が佇んでるだけであった
「小滝抗の抗夫達は、仕事を終えると何よりも先に身体の汚れを流し疲れをいやすためにこの「お風呂」に入った。さぞ四万山話で振ったであろう」
浴場跡から少し先に行くと今の車道側の橋の隣に古い橋が残っていたが、明治20年に銅山便道として開削された小滝路に唯一残された銅製の橋(長さ26.6m巾3,05m)で大正15年に架設された「旧小滝橋」である
小滝抗は小滝橋から50mほど上に上ると道路沿いにあった「明治十年(一八七七年)足尾銅山経営を始めた古河市兵衛は小滝の旧抗(二五〇m先までの堀止)を利用し、明治一八年(一八八五年)七月にこの小滝抗を開抗しました。明治二十六年十一月には本山抗(間かく三〇〇五m)と貫通し、次に立坑で通洞抗(間かく三二六六m)ともに連絡するようになり備前楯山に向かって三抗から採鉱がすすめられました。」
「当初の小滝抗跡」ここは道幅が狭くカーブ部分なので下ってる時は死角で見えてなかった
「当初の小滝抗跡」の川を挟んで反対側にも遺構があった、上の写真を見てわかると思いますが、いつ崩れてもかしくない場所、夏は草木に覆われてよく見えなかったが落葉してた秋はよく見えた、ここは「旧小滝火薬庫跡」、足尾銅山では明治14年頃から火薬を使って採掘していた、この火薬庫は明治40年頃まで使用していたものと思われる
道路からガードレールと樹で中に入れないようになってましたが、ちょと足を踏み入れUターン、だって大きな岩がゴロゴロと、かれは頭上の崖からの落石でしょ
旧小滝橋からさらに上に向かって走って約1~2キロ?両脇に段々になってる石垣があった
この段々となってる石垣の上に社宅が建てられていたとは道を見ただけでは想像ができなかった
道の両脇の石垣の上に家があったのか~
小滝抗周辺は渓谷の紅葉も綺麗、秋はサイコーな景色が広がる
社宅、資材置き場であった銀山平公園と国民宿舎かじか荘日帰り入浴を楽しんで秋の小滝抗遺構巡り終了
本山抗口跡周辺
足尾銅山観光から銅親水公園、本山抗口跡へ向かう途中、間藤駅を過ぎてしばらくすると右側に「間藤水力発電所跡」発見
明治23年の頃はこんな感じの発電所だったみたい
銅親水公園方面松木川沿いに大型廃墟発見、多分右奥が足尾銅山本山製錬所だと思う?
廃墟の松木川には古河橋というのがあった
この古河橋は現存する足尾銅山産業遺構の中でも貴重な橋なんだそうです
大型廃墟の前の端を渡り山奥に向かって車を進める、本山抗口跡に向かう道路は車1台が通れるだけの道幅だった
本山抗口跡周辺に到着、車は停められるスペースはあったものの、小滝抗跡と違い、大自然の景色しか見られなかった
道路脇の説明パネルには銅山産業が栄えていた当時の写真があったが、今現在の大自然の姿からこんなに建物があり1000人以上の人が暮らしていたとは思えなかった
「閉山直前の本山のようす~本山は本山抗・たかの巣抗の開削につづき、明治17年(1884)に有木抗(本山抗)が開発されると同時に、鉱業所、選鉱所、製錬所、医局などの施設がおかれ、その後火力発電所や本山小学校の前身となる学校が設けられして、名実ともの足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は日本一の銅山になったのです。
明治40年に、本山の労働争議がきっかけに、鉱業所が掛水に移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1973)2月28日に、足尾銅山が閉山となり、本山にはそのとき138世帯477人(10年前の昭和38年4月には290世帯1167人)が住んでいましたが、その年の8月に遂に無人となりました。今は鉱山神社がぽつりと、つわものどもの夢の跡を見守ってるだけとなりました
日光市指定史跡本山鉱山神社入口
「本山の山腹にあり、明治二十二年に抗長(古河鉱業株式会社足尾鉱業所長)木村長七以下、本山に働く鉱員達の寄進によえい造営されたもので、足尾銅山の山神社としては、最古のものである。鉱山神社はふつう山神社といわれ大山祇命、金山彦命、金山姫命の三神を祀ってある。昔は本山抗のかたわらに小祠としてあったのを、ここに新たに神社を建設して移したもので、本殿は流れ造りである」
今現在もある神社だから行ってみたいが・・・参道から先が見えない・・途中から草ボーボー木の枝ボーボーの大自然参道、ポツンと1人で行くには万が一の熊さんが怖く断念、本山抗跡は小滝抗跡と違い道路脇から見れる所はなく、散策して遺構を見るようだった、私の場合はこれにて本山抗口跡周辺巡りは終了
感想
今回は1人だから気ままにできた観光でしたが、先に何も調べずに観光マップから見て回ったので冒険してるようでそれなりに楽しめた、特に小滝抗は石垣なども残ってるし、所々に当時の写真や説明パネルもあり今現在からは想像できない昔の姿を知る事ができた。そして説明書きを見て驚いたのは、足尾銅山観光の「通洞抗口」と「小滝抗跡」と「本山抗口跡」が中では繋がってる事、車で走っただけでも抗口は結構離れてるのに、ほぼ人力でよくここまで掘ってたな~と感心してしまった、ただ殆どの建造物は取り壊されていて、もし多く残っていたら将来町全体が世界遺産になっってた感じがした
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