殺生石

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殺生石(賽の河原/千体地蔵)に行った


殺生石(賽の河原/千体地蔵)に行った


2014年3月国指定「奥の細道の名勝地」に指定された所で、ここに行くと賽の河原と千体地蔵も見る事ができる。入口の看板には「史跡」と表記されてるが実は史跡ではない。しかし歴史や伝説が残る地である事は確かである。

この辺りは「殺生石園地」とも呼ばれていて、どんより薄暗い日だったら地獄に向かうような風景、晴れた日でも岩がゴロゴロとした殺伐としたな風景で那須高原の景色とは思えないような逆に珍しい景色を楽しむ事ができる


住所:栃木県那須郡那須町湯本、入場料:無料、駐車場:無料



目次

アクセスや駐車場

殺生石園地の様子と感想や口コミ




アクセスや駐車場



殺生石へのアクセスは東北自動車道那須インターチェンジから約12.4キロ車で約20分の道のり。那須街道を那須ロープウェイを目指して走って那須湯本温泉地に入って那須温泉神社の鳥居が見えます。

那須温泉神社前無料駐車場

鳥居前の道路脇に無料駐車場(鳥居下県営駐車場)があります。神社の参道を通ってお参りしながら殺生石に行く事ができます。*参道内にトイレあり。

殺生石無料駐車場

上の駐車場を無視して那須街道を奥にさらに進むとすぐ目の前は殺生石という場所に15台まで可能な無料駐車場があります。*駐車場にトイレ、自販機、休憩ベンチあり

高湯山大権現

殺生石駐車場にあるトイレ棟の裏手に「高湯山大権現」の碑がありました。調べてみると茶臼岳山中に湧出する御宝前の湯を御神体としてた霊場を指し、それが「那須獄神社」へと変わり茶臼岳の頂上に祠があるそうです。ひっそりと殺生石の方向へ向かって建ってたので一応手を合わせてお参りしときました。



殺生石園地の様子と感想や口コミ

殺生石園地案内図

殺生石園地は殺生石の無料駐車場から途中立ち止まらなければほぼ平面に近い遊歩道で片道10分程度、写真を撮ったり景色を眺めたりしても所要時間は30分ぐらい。目の前に広がる風景は箱根なら大涌谷、草津温泉だったら西の河原公園のような場所。

温泉神社から見た殺生石園地の様子

那須温泉神社の参道から殺生石に向かうと殺生石全景の景色や後ろ側から見た千体地蔵を見る事ができます。殺生石→神社は緩やかな登坂、神社→殺生石は緩やかな下り坂になります。

殺生石入口

殺生石に来たのは4度目(小学生低学年の時と20才前後の時と30代の頃と完全オジサンの今)、今回は神社側の駐車場に停めて、神社→殺生石というルートで来てみました。殺生石→神社駐車場は上りの那須街道を歩きました。

ここでは、殺生石にある無料駐車場に車を停めた場合の遊歩道の様子を書いてます。さて、殺生石入口手前に「史跡」とありますが、史跡ではなく、1689年(元禄2年)に松尾芭蕉がこの地を訪れて「奥の細道」に俳句を記した事から国の名勝「おくにほそ道風景地」に選ばれてます。

奥の細道には「殺生石は温泉の出づゆ山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」とあり「石の香や 夏草赤く 露あつし」の句を書いてます。

湯の花採取場跡

遊歩道脇の山側には「湯の花採取場跡」もあるから、芭蕉の書いた句にあるように「石の毒気いまだ滅びず」と昔は硫化水素臭(俗に云う硫黄の香り)が辺り一面漂ってた印象を受けます。今現在はガスの噴出も少なく、殆ど匂わないに近い状態でした。すぐ近くにある「鹿の湯」の近くに今は採取場がありました。

盲蛇石

入口から遊歩道を歩いて奥に向かって進むとすぐあったのが盲蛇石、『昔々のある冬のこと、この地で五左衛門という男が盲目の大蛇と出会いました。彼は、蛇が厳しい冬を越せないだろうと気の毒に思い、ススキと小枝で小屋を作ってあげました。

翌春、小屋を訪れると蛇の姿はなく、輝く湯の花があるばかりでした。その後、湯の花の作り方は村中に広まり、人々の感謝の意を込めて、蛇の首に似たこの石を「盲蛇石」と名付け大切にしたということです。』とすぐ近くに岩の由来の説明書きがありましたが・・・・若干意味不明・・・蛇が湯の花に変わって・・・何で?作り方?

賽の河原

水も流れてなく岩がゴロゴロした川「賽の河原」、一番奥の白い山肌の所が殺生石。

千体地蔵のある殺生石園地の様子

遊歩道脇に千体地蔵。

千体地蔵の様子

個人的には殺生石を見るより圧巻の千体地蔵の風景の方が見応えありました。

手が大きかったお地蔵さん

どれも顔も微妙に違うんですが、一般的なお地蔵さんと違って手がデカイ。昔はこんなになかった気が・・・・・・調べてみたら昭和53年から地元の人たちを中心として1体1体寄進が始まり、一時国の許可が下りず撤去され昭和56年頃国に認められて年々数が増えてきたそうです。今は900体弱?手が大きいのは平和の祈りを切に願ってる事らしい。今でも那須町観光協会申し込みにて1体35,000円で建てられるそうです。

教傳地蔵尊(教伝地蔵尊)

千体地蔵の中にひときわ大きいお地蔵様が「教傳地蔵尊(教伝地蔵尊)」、千体地蔵が始まったのはこのお地蔵様の修復が元なんだそうです。

さて、この教伝地蔵尊には伝説が残ってます。『昔、白河の五箇村に蓮華寺という寺があり、そこに教伝という生来の不良僧がいた。ある朝、教伝は友人2人と那須へ湯治に出かけることにした。そこで同じ寺に住んでた母が、急いで食事を整え、膳をすえると、「旅支度もできないのに膳をすえるとは!」と膳をけとばし、母をののしり食事もしないで出かけた』

大昔も今でいう家庭内暴力というのが存在してたんですね!時代劇などを見てると大昔の子供たちは親の言う事を聞く子ばかりだと思い込んでました。

『那須の湯にひたって4~5日。教伝たちが殺生石を見ようと賽(さい)の河原に行くと、突然大地から火災、熱湯が噴出し、教伝だけが動くことができず、「母のすえた膳を足げにした。その天罰で火の海地獄におちていく!ああ苦しや苦しや!」』

『友人が駆け寄り助けようと引き出しましたが、教伝の引き込まれたところは泥流がブツブツと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまいました。その後、湯本温泉の有志が享保五年(一七二〇)に地蔵を建立して供養を行いましたが、親不孝の戒めとして、参拝する者が後を絶たなかったということです。』

この教伝地獄の由来、教伝地蔵尊の由来は戒めの為の伝説ととらえる事もできますが、個人的には芭蕉の句にもあったように硫化水素臭が漂ってた地、草津温泉の西の河原公園に似てる地形なので、熱湯のような源泉が沸いてて教伝という子供は実際そこに落ちて火傷して死んでしまったような気がしたので、お地蔵様へじっくり手を合わせました。

東屋と殺生石園地の景色

教伝地蔵尊の上には東屋もあって休憩可能!この辺りまで行って振り返ると山と山の間に下界も見えてなかなか開放的な景色た楽しめます。

展望デッキ

遊歩道脇に展望デッキも。

殺生石のあった斜面の様子

殺生石に到着、縄で縛られた岩が「殺生石」

ぶっちゃけ小学生低学年の頃家族に連れられて来た時つまらない場所だな~という思い出が。二十歳頃はデートで来たので楽しかったけど、30代は今度は小さな娘を連れて家族で・・チビッコにはそんなに楽しい所ではないかも!

でも中年オジサンになっての4度目は、何故か?じっくり見て回り見応えのある観光地だった。そして今回初めて知りました。この殺生石の由来・・・・・・

【九尾の狐は、中国の王の后に姿を変えて、悪行を尽くし、インドに渡り、太子の后となって悪行を尽くしますが、ある夜、突然姿を消しました。

数百年後、16~17歳の女子に姿を変え、遣唐使の船で日本に渡り約360年後、赤子に化けて、子宝に恵まれない夫婦に拾われます。藻女(みすくめ)と名付けられ、夫婦の寵愛のもと美しく成長し、18歳で宮中に仕え、才色兼備と称えられたのです。

そして名を玉藻の前と改め、鳥羽院のそばに仕えました。玉藻の前は、鳥羽院を殺そうとします。

やがてはこの世を治め、人の世を滅ぼそうとするのですが、陰陽師 阿部泰成は玉藻の前を九尾の狐と見破ります。泰成との対決に破れた玉藻も前は、『白面金毛九尾の狐』の姿となり飛び去ります。

那須野に現れた九尾の狐は、婦女子をさらうなど悪行の限りを尽くします。

朝廷は、領主、須藤権守貞信に『九尾の狐』退治の勅命を下しました。三浦介と上野介を将軍とし、泰成を参謀とした八万余の軍勢は那須へ集結します。そして、谷の一角に追い詰めた狐を貞信が神から授かった鏑矢で射止めます。

九尾の狐は、巨大な毒石に姿を変え、近づく村人や獣、空飛ぶ鳥や小川の魚までも猛毒を放って殺し続けます。

これを伝え聞いた名僧 源翁和尚は毒石の教化のため那須湯本に宿をとり、行人の湯で見を清め狐退治に向かいます。石に迫り一心に大乗経を上げ続けると、一筋の白煙とともに玉藻の前が現れますが、やがてその姿は消え、石は3つに割れて飛び散り、1つがここに残りました。

人々は、この石を「殺生石」と名付けたのです。】

殺生石

縄がかかってから今まで御神体かと思ってました(恥)、飛び散った残り二つの石が気になりますが、伝説の続きでは「合津」と「備中」に飛んでいったみたいですが、美作国高田(岡山県)、越後国高田(新潟県)、安芸国高田(広島県)、豊後国高田(大分県)、他にもいくつかその石を祀ってるお寺など全国各地にあるようです。

全国各地にあるのはおそらく殺生石の事が室町時代の「下学集」に書かれたり、「殺生石」という謡曲や江戸時代には歌舞伎の題材となって広まったから、多分どこかは便乗したのかな?

芭蕉の句碑?

芭蕉の句碑?「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」この場所から那須温泉神社の境内へ向かう遊歩道があります→那須温泉神社に行った

殺生石横にあった那須高原展望台(恋人の聖地)への遊歩道

神社の反対側は那須高原展望台(恋人の聖地)への遊歩道がありました→那須高原展望台(恋人の聖地)へ行った。


 

タグ :

栃木県 那須温泉/那須高原   コメント:2

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コメントは2件です

  1. 通りすがり より:

    はじめまして。
    神社についてネット上をいろいろ巡っていてたどり着き、読ませていただきました。
    殺生石ですが、割れて飛んでいった石のうちのひとつが、栃木県の隣である福島県の白河市表郷地区にある常在院というお寺にあります。
    (たしか那須の殺生石のところにある説明の看板にも、表郷にあると書かれてた気が)
    うちが檀家になってるお寺なのですが、お寺の裏の方にひっそりとあります。
    他にもいくつか飛んでいったといわれている地があるので本当に常在院にある石が殺生石なのかわかりませんが、そう言い伝えられてるらしいです。
    ちなみに常在院には、九尾の狐を退治した時の様子が書かれた絵巻物?のようなものがあり、毎年8月7日頃に御開帳されます。(描かれてる狐はなぜか二尾ですが)
    機会があったらぜひ訪れてみてください(^-^)

    • poco より:

      通りすがりさんへ

      こんばんは。ポコです。情報ありがとうございました。
      8月7日の御開帳見てみたいです。

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